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ジェノサイドの歴史―キガリ―


ウガンダからルワンダへ無事に入国し、ほっと一息。

ここルワンダへ来た理由はただ一つ。


ジェノサイド(虐殺)の歴史を知りたいということです。


ルワンダでは18年前・・・・そう、本当につい最近まで内戦が続いていました。

そのため、ルワンダ国内にはいくつもジェノサイドニュージアムが点在しています。

今回は、キガリのジェノサイドミュージアムについてご紹介したいと思います。



まず、ルワンダ内戦の歴史について。

ルワンダ虐殺(Rwandan Genocide)は、1994年にルワンダで発生したジェノサイドである。1994年4月6日に発生したルワンダ大統領のジュベナール・ハビャリマナとブルンジ大統領のンタリャミラの暗殺からルワンダ愛国戦線 (RPF) が同国を制圧するまでの約100日間に、フツ系の政府とそれに同調する過激派フツによって、多数のツチと穏健派フツが殺害された。(ルワンダやブルンジなどの地域では、フツ族、ツチ族、トゥワ族の三つに分類され、これまで幾度も対立してきた)

1994年4月6日、ルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領とブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領の搭乗する飛行機が、何者かのミサイル攻撃を受けてキガリ国際空港への着陸寸前に撃墜され、両国の大統領が死亡した。攻撃を仕掛けた者が不明であったため、ルワンダ愛国戦線と過激派フツの双方が互いに非難を行った。そして、犯行者の身元に関する両陣営の意見は相違したまま、この航空機撃墜による大統領暗殺は1994年7月まで続くジェノサイドの引き金となった。

『大量虐殺の社会史』によれば、ルワンダ虐殺はしばしば蒙昧無知な一般の住民がラジオの煽動によってマチェーテやクワなどの身近な武器を用いて隣人のツチを虐殺したというイメージで語られているが、これは適切な見解とは言い難い。ジェノサイドへ至るまでには、1990年以降の煽動的なメディアプロパガンダや民兵組織の結成、銃火器の供給、虐殺対象のリストアップなど、国家権力側による非常に周到な準備が行われていた。この国家権力側による準備と、対立や憎悪を煽られた民衆の協力によって、およそ12週間続いた期間のうち前半6週間に犠牲者の80%が殺害されるという、極めて早いペースで虐殺が行われた。その結果、与野党を含めたフツのエリート政治家の多くが、紛争終結後の裁判によりジェノサイドの組織化を行った罪で有罪とされている。

1994年4月7日に開始されたジェノサイドでは、ルワンダ軍やインテラハムウェ、インプザムガンビといったフツ民兵グループが、組織的行動として捕らえたツチを年齢や性別にかかわらず全て殺害した。また、穏健派フツは裏切り者として真っ先に殺害された。フツの市民は虐殺に協力することを強いられ、ツチの隣人を殺害するよう命令された。この命令を拒んだものはフツの裏切り者として殺害された。大半の国が首都キガリから自国民を避難させ、虐殺初期の時点で同国内の大使館を放棄した。状況の悪化を受けて、国営ラジオのラジオ・ルワンダは人々に外出しないよう呼びかける一方で、フツ至上主義者の所有するミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンはツチと穏健派フツに対する辛辣なプロパガンダ放送を繰り返した。国内各地の道路数百箇所では障害物が積み上げられ、民兵による検問所が構築された。大々的にジェノサイドが勃発した4月7日にキガリ内にいたダレールと国際連合ルワンダ支援団メンバーは保護を求めて逃げ込んでくるツチを保護したが、徐々にエスカレートするフツの攻撃を止めることができなかった。この時、過激派フツはミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンの報道を受けて、ダレールと国際連合ルワンダ支援団メンバーも標的の1つとしていた。4月8日、ダレールはニューヨークへ、過激派フツを虐殺行為へ走らせる推進力が同国の民族性であることを暗示した電報をニューヨークへ送っている。また同電報には、複数の閣僚を含む政治家や平和維持軍のベルギー兵が殺害されたことも詳述されていた。ダレールはまた、この現在進行中の虐殺行為が極めて組織立ったもので、主に大統領警備隊によって指揮されていると国連に報告している。

その後、ルワンダ愛国戦線により1994年7月4日に首都キガリおよびブタレを制圧し、同月16日には政府軍の最終拠点であったルヘンゲリを制圧、その二日後の18日にカガメ司令官が戦争終結宣言を行った。これはハビャリマナ大統領の暗殺からおよそ100日後のことであった。


<参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E8%99%90%E6%AE%BA>

ルワンダ虐殺について詳しく知りたい方は、「ホテルルワンダ」を見てみてください。






私が始めに行ったのは、首都キガリにあるジェノサイドミュージアム。

ミュージアム内は写真撮影禁止なので、写真はありません。。ごめんなさい!


ここは「ミュージアム」というだけあって、かなりちゃんと施設化されていました。

出来事がつい最近だったこともあり、写真や映像がカラーで残っていました。


どうして虐殺が起こったのか、どれだけ酷いことが行われていたか、各国の反応やその後についてを時系列で説明されていました。

このミュージアムの特徴は、ルワンダ内戦の説明の後にこれまで世界で起こった虐殺を一つずつ紹介していることでした。

アルメニア人虐殺、ユダヤ人虐殺、カンボジアのポルポト内戦・・・・改めて見るとこれまでの歴史の中でこんなに多くの国で虐殺が起こっていたんだな、と実感しました。


人はなぜ繰り返すのか。

なぜ学ばないのか。



そういうことを訴えかけていたように見えました。




一番衝撃的だったのは、Children's room。

これはミュージアムの2階部分に設けられた一室で、虐殺された子どもたち数十人をピックアップして、


彼らの名前、

年齢、

仲の良かった人、

好きな食べ物、

好きな遊び、


そして最後の項目には、



なぜ亡くなったのか、

最後に彼らが見た光景は何だったか、


が書かれてありました。


とても幸せそうに映る写真からわかる彼らの生活。

甘えん坊な子も強い子も、無邪気に遊んでいた様子が簡単に想像できた反面、頭を銃で撃ちぬかれて亡くなった、ナタで八つ裂きにされた、などあまりにも残酷な最期を迎えたことを想像すると・・・・自然と涙がこぼれてきました。

こんなことが、本当に18年前に起こっていたなんて信じられませんでした。


それと同時に、ポルポトのときと同じ気持ち、自分が恥ずかしくなりました。

「どこかの世界」で「何かが起きた」というだけのことしか頭になかった自分がとにかく恥ずかしくて、どうしようもないくらい悲しくて。


文章や写真で見るのとはまったく違い、自分の目で見るとこんなにも世界は広くて狭いものなんだと感じるし、すごく遠い存在に見えていた虐殺の事実も、こんなにも近くに感じることなんて今までありませんでした。

だって今現在、普通に生活しているルワンダ人の中には加勢した人もいるだろうし、怖い目に遭った人もいるだろうし、生き残るのに必死だった人もたくさんいるだろうし・・・・そうやって命からがら生き残った人たちが暮らす国だなんて、今のルワンダからは想像できないくらいルワンダ人は優しくて温厚でフレンドリーで、インフラも綺麗に整っていて・・・・。

ルワンダ内戦が終わったとき、今まで別れていたツチ族・フツ族という概念もなくなり、ルワンダ人は「ルワンダ人」として一つになりました。

しかし、「フツ」や「ツチ」というワードは今でもかなりタブーな存在で、ルワンダ人が近くにいるときは決して出してはいけない言葉です。

そう思うと、道を歩いているだけじゃわからない彼らの黒い闇の部分や傷ついた部分が少しだけわかります。


キガリのジェノサイドミュージアムではジェノサイドの本当にさわりのさわりの部分だけ見させてもらいました。
それでも感じたことは多く、自分はまだまだ未熟というか・・・・もっと勉強していかなきゃな、と自覚させられました。


次回はギコンゴロのジェノサイドミュージアムについて。

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MEGUMI

Author:MEGUMI
大学卒業後の1年間の旅をし、何となくマレーシアに移住。
現在はイギリスの大学院で戦後復興学の勉強をしています。

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